西園寺と山城を活用する会は、令和元年10月1日に発足しました。西予市宇和町は

西園寺氏の本拠として特別な地域としての歴史を持っています。その価値を検証しなが

ら魅力を県内外に発信することで、観光にも活かしながらまちづくりを支援し、地域活

性化を目的としています。また、西予市内に点在している山城をそれぞれの地域住民

の理解と協力を得ながら、その価値と魅力を啓発[sr1] 、地域で活用され将来に継続してい

く道筋をつくることを目指しています。主な活動として、講習会・研究会・研修旅行、

山城探索や城郭資料収集を実施したり、山城の整備と活用などを進める活動を少しずつ

行っています。


戦国公家武将・西園寺氏のまち 西予市宇和町

 愛媛県の西部に位置する西予市は、5町が2004年に合併し人口  人の市です。西予市宇和町は、周囲を山に囲まれた穀倉地帯で盆地を形成しており、縄文時代から人が住み始め弥生時代には稲作の発展が見られます。古くから南予地域の交通の要衝でもあり、古墳時代には多くの古墳も造営され古代では宇和評も置かれた地域です。鎌倉時代になると西園寺公経が荘園領主となり、南北朝期にはその一族が土着し、伊予西園寺氏としてこの地域をおさめています。

 西園寺氏は、松葉城を居城として丘陵下には屋敷を構えており、尾土居と言う地名が残っています。戦国時代が始まる頃には、松葉城から黒瀬城に拠点を移しており城下に松葉町もつくって繁栄しています。宇和には、116箇所の山城が残存していると言われていますが、山城のまちと呼んでも良さそうです。戦国末期になると土佐の長宗我部が侵攻してきますが、その後豊臣大名が支配し戸田勝隆によって西園寺公広は謀殺され宇和の中世が終焉します。豊臣大名の支配が終わり江戸時代になると伊達藩の在郷町として栄えます。美しい田園風景と奥深い歴史溢れる宇和は、松山からJRで約1時間で来ることができ、愛媛県歴史文化博物館も所在し文化の里としてやすらぎの時を過ごせるまちです。

宇和の中世

 宇和の中世は、西園寺氏の歴史と言っても過言ではない。西園寺氏は、藤原氏の流れをくむ上級貴族(公家)で、藤原通季(みちすえ)が始祖で、家名は四代当主の公経(きんつね)が京都北山に寺を営み西園寺と号したことに始まる。公経は、鎌倉幕府との公武両政権を仲介する関東申次の要職を世襲化し摂関家を凌ぐ権勢を誇ったされている。西園寺の独自の所領も淀川の最要衝や瀬戸内海でも流通の拠点となる主要な場所をおさえている。瀬戸内の河川や海上交通を押さえることにより列島内の海上交通を支配していた。伊予西園寺氏は、その支流であり瀬戸内海上交通の重要な場所に下向土着し戦国武将化している。下向の時期は諸説があり不明瞭であるが、南北朝末期には既に西園寺氏が伊予において文書を発給するなど活動が見える。西園寺家内部の抗争により、公重(きんしげ)は吉野で死去するがその一族が下向し土着たと考えられている。宇和に土着した伊予西園寺氏は、室町期には松葉(宇和町下松葉)、立間(吉田町立間)、竹林院(鬼北町深田)に分派して、宇和荘内に分かれて領域支配を展開しているが、本宗家は松葉西園寺である。松葉城を居城として領域支配していた伊予西園寺氏は、南予で最大の領主となっている。戦国時代に突入した16世紀初め頃になると、本拠としていた松葉城から黒瀬城に移転して松葉町を形成している。最後の当主である西園寺公広(きんひろ)は、中世の河野氏や安芸の毛利氏らと提携し、喜多郡の宇都宮氏や土佐一条氏に対抗し合戦も繰り広げている。戦国末期には、土佐の長宗我部氏の侵攻され一時期その傘下に入っている。その後豊臣大名の戸田氏によって謀殺され西園寺氏の歴史は幕を閉じることになる。

松葉城の紹介

松葉城跡は、宇和町下松葉の東側丘陵で標高408mを測る尾根上に構築されている。東西の尾根状地形を削平し主な曲輪が形成されている。東側端部の最も高い地点が主郭1となり、その東端部は三方を土塁で固めており、その他は約3分の2が平坦な岩が露出しており、自然の岩塊を利用して造られている。  主郭の西側に構築されている曲輪IIは、主郭I帯曲輪と考えられ北側は曲輪Iからスロープ状に緩やかに落ちており、南側は約1~2mの比高差で段がついている。曲輪IIからは、4~5mの比高差を持ちIIIの曲輪に至る。

曲輪IIIは、東西54m、南北38mの広さを持ち、北東隅には井戸跡と考えられる直径2mの円形状の落ち込みが認められる。さらに南東部には、幅2m、長さ13mの土塁跡の痕跡が残っている。IIIの曲輪は、2ヶ所に段差が認められるが曲輪内部の建物等の区画の可能性もある。Ⅳの曲輪は、西端の曲輪で東西42m、南北32mで南東部は一段高く東西25m、南北14mの広さを有する。やはりここも建物跡等の存在が予測できる。Ⅳの曲輪の南西部を囲むように土塁状の痕跡が認められる。さらに西側は切岸となっているが、斜面下には緩やかな傾斜を持つ平坦面が2ヶ所確認できる。北側中央部のⅢ曲輪の斜面下とⅣ曲輪の西端部の斜面下に腰曲輪が存在するが、土塁と石積みが確認できる。主郭の東側斜面下には、堀切1が掘られ防御している。東端部の堀切2は、個人所有地なので入ることはできない。

 城郭研究者の指摘では、現状の遺構に土塁・櫓台・石垣・枡形等が築かれており、元亀3年(1572)から天正15年(1587)頃の遺構が存在しているとされている。主郭曲輪Iの東端部の土塁遺構部が高いことから櫓台を想定されており、長宗我部氏が宇和攻めする天正 13年まで改修され使用されていると推定している。

黒瀬城跡の紹介

 黒瀬城跡は、宇和町の卯之町市街地の標高340mの西側丘陵上に構築されており、JR卯之町駅から宇和川を挟みの運動公園のある丘陵下から登城できる。

 縄張りは、西側の尾根筋を2本の堀切と、東側端部斜面は竪堀で防御しており、規模が約250mx50mを測る宇和地域では大規模な城郭である。   本丸は、東西に細長い130mx25mの平坦地で、北側の一段低い箇所には帯曲輪を掘削し横堀と土塁を構築し防御を固めている。まら南側中央部やや西側に虎口を設けており、折れをきかせ内枡形になっている。

本丸から東側尾根にかけて数段の平坦地を造りだし曲輪を形成している。曲輪は数段にかけて形成され、井戸跡の痕跡と伝承されているところもあり、廃城後には一部宗教施設も立っていた。北側には、本丸にも見られる横堀を構築しており、北側を意識した防御である。南側は、帯曲輪が本丸から続きと登城道としても利用された可能性がある。東側先端部の曲輪は南北に土塁の痕跡が残り、東側斜面部には竪堀群が確認できる。

1980年に刊行された日本城郭体系で黒瀬城の紹介されているが、山頂の南側一帯は断続的に石垣が並び、宇和郡の領袖の居城にふさわしい城構えがうかがえると記載されているが現在は確認できない。また、黒瀬城の東麓には西園寺氏の菩提寺となった光教寺があったとされ、当時は満々と水をたたえる広大な光教寺池となっていることも記載されているが、現在は運動公園として整備されており当時の面影はない。

西園寺氏の菩提寺・光教寺

西園寺と山城を活用する会活動写真

西園寺のシンポジウムとトークショー

座禅とお茶会

子供たちと田植えと松葉城で遊ぶ

案内看板と御城印箱、城の説明板設置

城跡清掃と城跡歩き

活動は続く」」